内なる声に耳を傾けることで、生きづらさを幸せに変えていこうとするあなたに寄り添う こころのケア カウンセラーの今野ゆう子です。
もう一人で頑張らなくていい!
苦しい時に人に頼ることは悪いことではありません。
過去の私も、「私さえ我慢すれば」と、全てを抱え込む人生を送ってきました。
けれども、勇気を出して助けを求めたことをきっかけに、自分を愛すべき存在であることに気づき、人生を好転させることができたのです。
少し長くなりますが、私のプロフィールをご紹介します。
何不自由なく過ごしていた子供時代
私は1965年に山形県で、日用品・雑貨の卸売業を営む父と、日用品・雑貨の小売業を営む母の長女として生まれました。
私たち家族が住んでいたのは、駅前の商店街。1階が店舗と倉庫で、2階は住居です。
お客さんやお得意さんなど人の出入りが多く、いつも大人たちに囲まれていたことを覚えています。
当時世の中は高度経済成長期に突入していて、わが家は経済的に恵まれていました。
欲しい物や食べたい物は、がまんすることなく手に入れていたと思います。一人娘だったということもあったかもしれません。
子供時代の性格は、どちらかというと内気な方でした。
両親はどちらも商売を営んでいて話好きなのに、おもしろいですよね。
大人たちに囲まれていても、積極的に話しかけたりおちゃめなことをしたりするタイプではなく、両親の隣にちょこんと座り、みんなのやり取りを見ているような、そんな子供でした。
表向きは人見知りで通っていましたが、実は周囲の人の顔色を異常に気にしすぎて、言いたいことも言えないような子供だったのです。
人の顔色が気になって仕方がない! 自己主張できない内気な少女時代
私が人の顔色を気にするようになったのは、家庭環境が大きく影響しています。
商売は繁盛し、いつも笑顔を絶やさない両親と、いい子として認識されていた私。はたから見たら、幸せな家庭に映っていたかもしれません。
けれども、私と母は父の家庭内暴力に悩まされていました。
父は気が弱く、周囲の人にはとても優しかったのですが、そのストレスがすべて母に向けられていたのです。
父に対して異常なまでに気を遣う母。
父は私に暴力を振るうことはありませんでしたが、父の怒鳴り声や怒っている時の顔に恐怖を覚えて、母と同じように、父の一挙一動を異常なまでに気にするようになりました。
学校でも言いたいことが言えなかった
私にとって学校も、のびのびと過ごせる場ではありませんでした。
「しっかりしているね」とよく言われ、そのイメージを壊さないようにしっかりとしている子供を演じていたと思います。
本当は、ただ人に悪く言われたくなくて、おとなしくしていただけなのに。
小学校中学年の時のことです。
放課後みんなで教室を掃除している時、私が持っていたモップの柄が男子生徒の目の辺りに当たってしまいました。
幸いにも大した怪我ではありませんでしたが、担任の教諭は、私が意図的にそうしたのではないかと疑いました。
その時私は「偶然当たってしまったんです!」と言えず、私が悪者になってしまったのです。
「私さえ我慢すれば、その場は丸く収まる」と考えてしまったからかもしれません。
本当は違うのに、「違う」と言えない自分が情けなく、周囲に理解してもらえないことに対して、激しいフラストレーションを感じました。
「自分が考えていることや感じていることを伝えられない」。
この一件から私は自分を否定するようになり、それは成人後も私を苦しめます。
ここから逃げ出さなければ!
小学校から、中学、高校へと進みましたが、父の暴力は相変わらずでした。
父は毎晩近所のスナックに通い、夜遅く帰ってきては母にからみ、時には大ケンカになることもありました。
ある日、ふすま一枚隔てた隣の部屋で父が母をたたく音が聞こえ、母が「うっ!」とうめき声をあげて私の部屋に逃げてきました。
手にはシップが握られています。
「背中にこれ貼って!」
暗闇の中、私は必死で母の背中にシップを貼ってあげました。
このようなことが毎晩のように続いたため、私は「お父さんの暴力で、お母さんが大ケガをしたらどうしよう」と、ビクビクしながら眠ることが日課になってしまいました。
「母のことはかわいそうだと思う。でも、ここから逃げ出さなければ」。
そういう気持ちが日に日に増していきました。
両親から離れたい一心で見つけた夢
そんなある日、高校のクラスの男子のお姉さんがスチュワーデス(当時の呼び名、現在は客室乗務員)をしていることを知り、「私もスチュワーデスになる!」と即決します。
当時女性の4年制大学進学は珍しく、私は東京の短大(英語英文科)に進みました。
父は私が東京へ行くことを快くは思っていませんでしたが、私にとっては短大を卒業したら実家に戻ると思わせての“脱出”です。
短大卒業と同時に、私はスチュワーデスの新卒試験を受けましたが、結果は不合格。
スチュワーデスになる気満々でいたので、この結果にはかなりショックを受けました。
運命に見放されているようで、みじめな気持ちでいっぱいでした。
期待外れだった新社会人のスタート
私は実家には戻りたくなかったので、仕方なく合格していたホテルに就職しました。
私の仕事は、電話交換室でのオペレーターです。正直とても嫌でした。
なぜなら、私には方言と自分のアクセントに対してコンプレックスがあったからです。
それが原因かどうかは分かりませんが、研修後しばらく経つと、私に吃音(きつおん)の症状が出てきました。
「お待たせいたしました。〇〇ホテルでございます」というべきところを「ホテル」が「ホテ、ホテ、ホテ……」となって言えなくなってしまったのです。
このように、私の社会人としての第一歩は、全くみじめなものでした。
ついに憧れのスチュワーデスに!
私が勤務していたホテル内には、航空会社の営業所がありました。
ある日、用事があってそこに行くと、既卒者スチュワーデス試験の募集要項が目に留まりました。
「あっ!」と驚くと同時に、受験を即決したのです。
今度こそ落ちるわけにはいかないと、とにかくがむしゃらに受験勉強に打ち込みました。
振り返ると、当時の集中力とパワーはすごかったと思います。
スチュワーデス受験の予備校に通うなど、考えられることは何でもやりました。
そして、1次から4次試験を奇跡的にクリアして、ついに「サイヨウナイテイス……」の電報を受け取ったのです!
受験者4,600名のうち合格者は60名、倍率は77倍という狭き門でした。
入社から半年後にホテルを辞め、航空会社に入社します。
その時の私は、長年の夢がかなったうれしさと、厳しい試験を勝ち抜いてきたという経験によって自信に満ちあふれていました。
そして、これから輝かしいスチュワーデス生活が待っていると、信じて疑いませんでした。
しかし、人の顔色を必要以上に気にする性格が、さらに強くなり・・・
航空会社に入社し、全体研修、地上研修(大阪)、専門訓練、OJTを経て、国内線での乗務をスタート。国内線には約1年間乗務し、移行訓練を経て、国際線に乗務しました。
あまり知られていないかもしれませんが、当時のスチュワーデスの世界は、“宝塚”に例えられていたのです。
どういうことかというと、1期違っても先輩は先輩で、後輩は後輩。
そして、先輩にはできるだけ仕事をさせないように、先回りして仕事をするように教えられました。
さらに、先輩が「カラスは白い」と言えば「そうですね」というような、上下関係が非常に厳しい世界だったのです。
もともと人の顔色を必要以上に気にする性格が、さらに強くなりました。それは、近くに住んでいた叔母から、「お前は気を遣いすぎて気持ち悪い」と言われるほどです。
先輩に気を遣いながら、マニュアルで細かく定められた業務を的確にこなしていかなければならない毎日。
知らず知らずのうちにストレスが蓄積されて、免疫力の低下で風邪をひきやすくなりました。
また、指の皮をむいてしまうクセが出るようになったのです。先輩からは「どうしたの、その手!」と驚かれました。
「私は父の子ではない」と知らされ人間不信に・・・
この頃プライベートでも、最悪なことが起こります。
ある日叔母から、「私は父の子ではない」ことを知らされたのです。
全く予期していなかったことで、大きなショックを受けました。
父が母に暴力を振るっていたのは、私の出生が関係していたのかもしれません。
そう考えると、父に異常なまでに気を遣う母と、母に暴力を振るう父の態度に合点がいきます。
そうすると、ますます自分が本当の父の子ではないという話が本当に思えてきました。けれども、母に聞いても話を逸らすばかり。
どうして母は私に本当のことを言ってくれないんだろう。
裏切られたような悲しみがあふれ、それ以来、私は人間不信に陥ってしまいました。
母の気持ち、人間の心理を学ぼうと大学へ編入学。再就職へ
娘に本当のことを話さない母の心理状態を理解したい気持ちが強くなった私は、大学で心理学を学ぶことを決意します。
勤務先のマネージャーに事情を話し、航空会社は結局4年で退職しました。
そして、1浪して希望する大学に合格したのです(実験科目があるため、2年次への編入学)。
大学の最終学年になり、進路を決める時が来ました。
大学院に進んで研究することも考えたのですが、研究と「母の気持ちを理解する」ことは何か違うと感じるようになったのです。
ちょうどその時、心に寄り添い「温かな対話」で人を癒やすメンタルケアの資格があることを知りました。
母との間に温かな対話が欠けていたのではと感じ、資格取得を決めます。
メンタルケア講座を受講・修了後、選考試験に合格し、資格を取得。その後、老人施設などで心のケアの活動に従事します。
母と同年代の方々と接することで、母との間にこのような温かな対話がなかったことを反省し、母はどんな気持ちでいるのだろうかと考えるようになりました。
心身症の発症と母の世話に激務が重なり・・・
都議会議員の秘書を頼まれたことをきっかけに、私はメンタルケアの仕事を辞めて都議会議事堂に勤務します。
「秘書」といえば聞こえはいいですが、実際の仕事は、電話応対、お茶くみ、毎朝の新聞の切り抜き、スケジュール調整、議員から依頼されたことの各局への取り次ぎ、各会合への代理出席、後援会会員への議会報告作成・発送、陳情・請願団体への対応など、雑用のオンパレードです。
雑用をこなす日々を送っていたある日、歩いていると布団の上を歩いているようなフワフワした感じがすることに気づきました。
よろけてぶつかりそうになる時もありました。
このまま症状が治らなかったらどうしようと不安になり、心療内科で検査を受けたところ、心身症にかかっていることが判明したのです。
医師からは、「20代には20代の、30代には30代の頑張りしかできないのだから、無理をしてはいけない」と言われました。
ガンになった父の看病と死別
健康に不安を覚えていたのは、私だけではありませんでした。
この頃、父にガンが見つかったのです。
手術は成功し家に帰ることができましたが、半年も経たないうちに再発。
医師からは治る見込みがないことを宣告されました。万が一のことも覚悟しておくようにとも。
私は父の付き添いで病室の床にふとんを敷き、寝泊まりしていました。
眠っている父の横顔を見ていると、嫌な思い出よりも楽しいことが思い出されます。
父との思い出が次々に浮かんできて、今まで育ててくれたことにあらためて感謝の気持ちがわいてきました。
ある日、入浴できない父のために足湯をしてあげたら、父はにっこりと微笑み、「気持ちいいなぁ」と一言。
めったに自分の感情を出す父ではありませんでしたが、よほど気持ち良かったのでしょう。
それを聞いて、とてもうれしい気持ちになったことを覚えています。
後で母から聞いたのですが、父は私のことを「とても優しいな」と言っていたそうです。
その後間もなくして、父は医師の言葉通りに天国へと旅立ちました。
依存度が高まる母と共依存
母はもともと私に依存気味のところがあったのですが、父が亡くなってから私への依存度が一層強くなりました。
私自身心身症を抱えていてつらかったのですが、母との温かな対話をしたいという気持ちから、年に数回一緒に旅行したり、毎晩母へ電話し約2時間話を聴いてあげたりしました。
母の心のケアをしようと、「悲嘆のプロセス(グリーフケア)」の講座を受講し、母の心に寄り添おうとしたのもこの頃です。
その時の私はきっと、自分の母に対する本音(出生の秘密を話してくれない母に対する不満など)に理性でフタをして、必死に母を受け入れようとしていたのだと思います。
けれどもそれは、結果的に自分自身を苦しめることになるだけでした。
頭では、「母親から離れるべきだ。母親よりも自分のことを考えた方がいい」ということは理解していたものの、それはできませんでした。
なぜなら、私も母もすでに親子の共依存から抜け出せなくなっていたからです。
心身症が悪化して・・・
医師からムリをしてはいけないと言われていたにもかかわらず、母との関係や仕事のストレスなどで、私の心身症はますます悪化の一途をたどります。
以前は、ふとんの上を歩くようなふわふわ感だけでしたが、急に息ができなくなるようなパニック症状に襲われるようになりました。
時を同じくして、議員が健康上の理由により今期限りで引退することになり、私は議員から紹介してもらった会社へ転職することになります。
心身症を抱えたままでの転職、ついに症状が極限に達して・・・
会社では契約事務、その後、採用活動を担当しました。
採用の仕事は、想像以上に神経をすり減らすものでした。
採用のためなら事実ではないことも言わなければならず、罪悪感にさいなまれる毎日。
また、採用した後輩が辞めるたびに、その人の履歴書に傷をつけてしまったことに対する申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
こうしたマイナスの感情が積もり積もって、仕事に向かうことがとてもつらく感じるようになったのです。
上層部からの矢継ぎ早の指示に、だんだんと思考力や判断力が低下していきました。
道路を歩いていてもふらふら歩きでスピードが出ず、何人もの人が私を追い越していきます。
疲れているのに眠ることができず、突然涙が出てくるなどの症状に悩まされるようにもなりました。
これといった対策もとらずに過ごしたことが、決定的だったようです。
心身症の症状が悪化し、起き上がることさえできなくなった私は、とうとう3週間の有給休暇を取得することになってしまったのです。
心理療法との出会い「頼ってもいいんだ」
私に転機が訪れたのは、クリニックのカウンセリングに助けを求めたことでした。
そのカウンセリングは、ぬいぐるみを抱きしめて、「〇〇ちゃん(私の名前)、だーい好き!」といったような内容です。
初めはこんなことをやって苦しみから解放されるのかなと疑っていましたが、藁にもすがる思いで、毎朝、毎晩「〇〇ちゃん、だーい好き!」「〇〇ちゃん、だいじょうぶ!」を繰り返しました。
そんな日が続いたある日。何となく自分の身体が温かく軽くなったように感じ、涙が出できたのです。
「〇〇ちゃん、ごめんね」と自分に語りかけている自分がいました。そして、自分を痛めつけてきたことを自分自身に謝りました。
それから自分と会話ができるようになり、自分のすべてを受け入れてあげられるようになったのです。
この体験をきっかけに心理療法に興味を持った私は、ある心理療法講座に出会います。
答えを求め、いろいろなことに取り組んできたものの、答えが得られなかったことを考えると、すぐに受講する気にはなれませんでした。
けれども、クリニックのカウンセリングを思い出し、「これでダメなら他のことをしても無理だ」と一念発起して受講を決めました。
その講座は、これまでの人生の中で私が実践してきたことが体系立ててまとめられた内容でした。
心理療法とは何かについて理解しやすく、かつ実践的であったため、クリニックで教えられた方法よりもずっと短期間で改善できることを感じました。
遠距離介護で気づいた母に対する愛
入社して数年経った頃、一人暮らしの母が急に「低ナトリウム血症」で倒れ、退院後は自宅での生活が難しくなったため、施設への入所となりました。
毎月東京と山形を往復する生活が始まります。
母は、身だしなみに気を遣う人でした。
毎月交互にパーマとヘアカラーをしてもらいに、介護タクシーで美容院へ母を連れていき、帰りには母の好きな物を一緒に食べました。
介護が必要になってからの母は、それまでの緊張感ただよう神経質な母ではなく、母本来のおちゃめで可愛らしい様子を見せてくれました。
そんな変化を目の当たりにし、母の生い立ち、その時々の母の気持ちを想像することが多くなりました。
そうすると、私のそれまでの人生が母の人生とそっくりなことに気づいたのです。
母をとても愛おしく思えてきて、「母の娘で良かった」と心から思えるようになりました。
約3年遠距離介護を続け、母は亡くなりました。
自分自身のことも愛おしい存在として受け入れられるようになった
実家の片付けをしていた時のことです。
遺品の中から私のへその緒と名前が付けられた時の用紙、そして手紙が出てきました。
その手紙にはある男性と母が一緒に写っている写真が添えられていました。その男性は、私の実父でした。
ノートをちぎったものに鉛筆で書かれた手紙には「本当に申し訳ない。なんとおわびしてよいか……」と、その男性と知り合った経緯、その後のことがつづられていました。
すべてを知った時、私の気持ちは沈むどころか、ふわっと軽くなったのです。
この時点で私は、母の気持ち、育ての父の気持ち、実の父の気持ちを理解できるようになりました。
私は今、心穏やかな日々を過ごしています。
毎朝父と母の写真の前で手を合わせ「父ちゃん、母ちゃん、ありがとう(あなたたちの娘で良かった)」と、語りかけるのが日課です。
自分の人生に愛おしさを感じ、自分の感情に従って行動できるようになれたのも、心理療法と出会い自分を肯定できるようになったからだと思っています。
さいごに
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
会社に入社してから、気づけば勤続20年を超えていました。
そして、機会あるごとに後輩たちから相談されることが多くなっていました。
会社に長年勤められたこと、心身症を抱えながらも仕事を続けられたこと。
私が経験してきた全てが誰かの役に立っていました。
もっと多くの人の役に立ちたいと、心理療法について学びを深め、現在、こころのケア カウンセラーとして活動しています。
生きづらさを幸せに変えるには、「自分の内なる声に耳を傾けること」です。
内なる声に耳を傾けると、生きづらさを抱えている自分を癒やすことができるようになります。
そして、自己ヒーリングできるようになると、本当の自分に気づくことができるようになるでしょう。
本当の自分に気づくことができるようになると、本当の自分らしい行動が取れるようになるのです。
つまり、あなたにとって幸せな人生を歩むことができるのです。
私のカウンセリングは、あなたが悩みから解放されて、これまで味わったことのないような、人生で最高の幸せを感じてもらうことを目的としています。
本当の自分に気づき、生きづらさを幸せに変えていきませんか?
あなたが本当の自分に気づき、生きづらさを幸せに変えられるお手伝いをしたいと思っています。
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